2.金沢大学ゆかりの著名人(1)西田幾多郎と鈴木大拙
西田幾多郎(にしだきたろう)と鈴木大拙(すずきだいせつ)。近代日本を代表する2人の哲学者・思想家は、ともに石川県出身の同い年で、金沢大学の前身校の1つ第四高等中学校(四高の前身)に在籍していた。ここでの最初の出会いの後、日本とアメリカ、京都と東京など、2人は遠く離れた場所で活躍しつつ、西田が没するまでの60年弱緊密な交流が続いた。
西田幾多郎(1870-1945、現かほく市生まれ)と四高の関わりは3回あった。1883年石川県師範学校、1884年石川県専門学校予科に入学後、石川県専門学校は第四高等中学校と改称され、1888年四高本科1年生となり、哲学を志す(ただし、血気盛んだった西田は中退)。2回目は1896年。当時の北条時敬(ときゆき)校長に招かれ、嘱託講師として四高に就職(1年後に山口高等学校に異動)。3回目は1899年。やはり、北条の招きで、四高教授に着任。その後、1909年に学習院に移るまでの約10年間は、西田の提唱で作られた「三々塾(公認下宿)」での学生との交流、主著『善の研究』(当時、旧制高校生たちの必読書と言われていた)のベースとなる研究など充実した時間を金沢で過ごした。1910年以降は京都帝大に移り、京都学派の創始者、日本を代表する哲学者として知られるようになった。

西田幾多郎(写真提供:石川県西田幾多郎記念哲学館)

西田幾多郎『善の研究』
鈴木大拙(1870-1966、本名:貞太郎、金沢生まれ)は、1882年石川県専門学校初等中学科に入学、1887年第四高等中学校予科に入学するが、困窮のため1年で中退。その後、鎌倉の円覚寺で釈宗演の下、禅の修行を始め、西田の勧めで、帝国大学に入学し、哲学を学ぶ。その行動力を発揮するのは1897年にアメリカに渡ってからである。東洋学関係の出版に携わりながら、禅や大乗仏教についての著作を英語で著し、帰国後は大谷大学教授に就任、東方仏教徒教会を創始するなど、禅を中心とした日本の思想や文化を海外に発信し続けた。世界的に見て、日本の仏教学者として最も著名であるのが大拙と言っても過言ではない。

鈴木大拙 (写真提供:鈴木大拙館)

鈴木大拙『禅と日本文化』(西田幾多郎が序を執筆)
金沢大学では、この2人の大先輩の名前を冠した「金沢大学国際賞」を創設し、哲学・思想・宗教を中心とする分野において、国際的に卓越した業績を挙げた研究者を顕彰している。
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金沢大学附属図書館中央図書館「思考の森」で展示しているパネルと同じ内容です。
2025年4月 金沢大学附属図書館コレクション検討ワーキンググループ作成