1-3.四高スピリットの継承:理念と校風
(1)北條時敬・西田幾多郎の師弟関係と「三々塾」の誕生
第四高等学校第5代校長 北條時敬(ほうじょう ときゆき)は学校改革を進め、「三々塾(さんさんじゅく)」などの公認下宿(塾)制度が始めるなど、校風確立に努めた。北條は金沢出身で県専門学校・第四高等中学校での教官経験があり、西田幾多郎(にしだ きたろう)との絆も深く、山口高等学校、第四高等学校で校長と教員の立場で職場を同じくし、西田は北條から多くを学んだ。四高の校風形成に大きな影響を与えた「三々塾」は西田による発案を北條が後押ししたものである。
北條は、時の総理大臣・伊藤博文に「金沢に北條なる者あり畏るべし」と言わしめた逸話が残るなど、金沢が生んだ偉大な教育者であり、1902(明治35)年に広島高等師範学校長、1913(大正2)年に東北帝大総長、さらには1917年に学習院長を務めた。

1902年卒業記念写真 前列中央が北條校長、2列目右から4人目が西田
(2)四高の校風「超然主義」
「超然主義」は、1906年に時習寮の炊事場・食堂・南寮が火事で焼け、150名居た寮生の大半が退寮するなか、38名の生徒が寮の再建と校風刷新のため、敢えて寮に立てこもり、「超然主義」を標榜して自己の進むべき道を求めることを宣言したことに端を発するとされる。
「超然」の語は、一種の流行語であったが、世俗を堕落したものとみて、これと一線を画す反俗主義を根底に置きつつも、高みに立って社会の指導者となるべく努力するエリート主義の意味で使われる場合と隠遁主義的ニュアンスで使われる場合とがあった。「超然趣意書」は隠遁的なあり方を否定し、エリート的在り方を肯定することを明言し、その実現のための具体的な生徒としてのあり方を示している。

「超然」の扁額
(3)自由・自治による文武の追求
四高生の服装・生活スタイルは「バンカラ」と呼ばれ、よれよれの学生服(弊衣)にぼろぼろの学帽(破帽)、マントに高下駄、長髪で腰に手ぬぐいという出で立ちであった。たき火を囲んで寮歌を謳歌するファイヤーストーム、街に繰り出して気勢を上げる街頭ストームなどの「ばか騒ぎ」も特徴的な生活スタイルであった。
大正期の四高を象徴するのは運動部の活躍である。運動部は北辰会という学友会に属し、柔道・剣道・弓道・漕艇(ボート)など多数あった。彼らの遠征たる「南下軍」は、学校のアイデンティティを象徴する行事であった。文化部の活動も活発で、学友会誌『北辰会雑誌』(のち『北辰』)は雑誌部(のち文芸部)が編集し、後に学界・文学界で活躍する人物を多く輩出した。ファイヤーストームや寮歌を謳歌する風習は、現在の附属高等学校に引き継がれた時期がある。

1933年当時の四高生
金沢大学附属図書館中央図書館「思考の森」で展示しているパネルと同じ内容です。
2025年4月 金沢大学附属図書館コレクション検討ワーキンググループ作成