1.金沢大学の源流をたどる:医学教育の伝統(テスト公開)
1.加賀藩彦三種痘所
金沢大学の歴史の出発点は「加賀藩彦三種痘所(かがはん ひこそ しゅとうじょ)」である。種痘所とは、天然痘の予防および治療を目的に設立された医療機関である。
金沢に種痘の痘苗が伝えられたのは1850(嘉永3)年であった。その後、津田淳三ら蘭方医たちによって堤町に私設の種痘所が作られて種痘の普及が図られた。1862(文久2)年3月、加賀藩は黒川良安(くろかわ まさやす)に金沢彦三八番丁の反求舎なる建物を付与して種痘所とすることを公認した。これがいわゆる「加賀藩彦三種痘所」の開設である。この種痘所に参画した医師は25名で、接種技術の伝授などの医学教育も行われた。
2011(平成23)年11月5日には、金沢大学創基150年を記念して、彦三種痘所跡地に「金沢大学発祥の地」石碑を設置する除幕式が行われた。

「金沢大学発祥の地」の石碑(金沢彦三郵便局前)
2.北陸金大医学の祖・黒川良安
幕末から明治維新にかけて、金沢での近代医学教育の礎を築いたのが、北陸近代医学の祖・黒川良安である。
黒川は越中新川郡黒川村(現、富山県中新川郡上市町)に生まれ、1828(文政11)年に父に従って長崎に行き、シーボルトの通訳 吉雄権之助(よしお ごんのすけ)に蘭学を学んだ。1840(天保11)年、長崎からの帰路、金沢にて執政 青山将監(あおやま しょうげん)に召抱えられ、翌年江戸に遊学。1846(弘化3)年藩医となり、壮猶館や種痘所等での役職を務め、1868(明治元)年、本格的な西洋医学・学校制度の調査のため、長崎に派遣された。金沢大学に残る人体模型キンストレーキは、この時に購入された。1869年、黒川良安は医学校設立に着手、1870年2月に大手町の加賀藩家老(一万石)津田玄蕃(つだ げんば)邸に金沢医学館を設立した。

黒川良安像(医学類教育棟玄関)
3.官立金沢医科大学の発足と「旧六大学」
870年に設立した医学館は、その後、県立に移行し診療部門の金沢病院と教育部門の金沢医学所に分離し、1888年、官立に移行し第四高等中学校医学部、1894年に第四高等学校医学部となった。1901年、勅令により医学部は四高から分離独立して金沢医学専門学校となった。1905年、小立野の現在地に病院部門が移転、1912年に教育部門も移転した後、1922(大正11)年に病院部門が県立から官立に移管されて附属医院となった。1923年4月、勅令により官立金沢医学専門学校(医専)は官立金沢医科大学(医大)となり、附属医院および附属薬学専門部を置き、医専の校長だった高安右人(たかやす みきと)が医大の初代学長となった。
官立金沢医科大学は、新潟、岡山、千葉、長崎、熊本とともに、戦前期の官立6医大の一つとして大きな足跡を残し、今日では「旧六大学(SixERS)」の通称で、研究重視の総合大学の地位を確立する礎となっている。

小立野(宝町)移転直後の金沢医学専門学校(後の金沢医科大学)の前景