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休館日

前身校と大学創設期

第四⾼等学校
明治16年4⽉中学校令及び⾼等中学校官制の発布があり,同年11⽉⾼等中学校の設置区域が定められ第四区を新潟,富⼭,⽯川,福井の4県として⾦沢に第四⾼等中学校を設けることとなり,明治20年4⽉18⽇第四⾼等中学校が⾦沢に設⽴された。同年8⽉医学部を設置,同年10⽉16⽇開校式を挙⾏した。明治21年8⽉⽯川県専⾨学校及び⽯川県甲種医学校を併合し敷地,校舎及び資産を引き継ぎ,明治27年9⽉⾼等学校令の公布により第四⾼等学校と改称した。明治34年4⽉第四⾼等学校医学部が⾦沢医学専⾨学校として分離独⽴した。⼤正12年4⽉第⼗臨時教員養成所を付設し,学科を物理,化学の2科と定めた。昭和3年4⽉同国語漢⽂科を増設した。昭和6年3⽉第⼗臨時教員養成所を廃⽌した。昭和24年5⽉⾦沢⼤学に包括され,昭和25年3⽉60有余年の歴史を閉じた。 (『⾦沢⼤学⼗年史』,1960) ⇒年表  
石川師範学校
明治7年7⽉⽯川県の⼩学校教員養成のため⽯川県英学校の⼀部を区画して⽯川県師範学校が創設され授業を開始した。明治8年1⽉本校舎の⼀部に⼥⼦部を設けたが,同年5⽉松原町⼥児⼩学校内に⽯川県⼥⼦師範学校が設けられ分離した。同年7⽉⼤聖寺,輪島の2カ所に⽀校を設け,明治9年8⽉新川県の本県合併により富⼭の新川師範学校を⽀校に加えた。明治10年2⽉3⽀校を廃⽌した。明治10年2⽉広坂通りの校舎に移った。明治16年11⽉⼥⼦師範学校を廃⽌男⼦師 範学校に合併し⼥⼦部とした。⼤正2年4⽉⽯川郡野村に校舎を新築男⼦部を移転した。⼤正3年4⽉⽯川県⼥⼦師範学校設置により⼥⼦部を分離した。   昭和18年4⽉1⽇⽯川県師範学校及び⽯川県⼥⼦師範学校を合併し新たに官⽴の⽂部省直轄の⽯川師範学校となり,男⼦部は弥⽣町に⼥⼦部は広坂通に位置した。昭和24年5⽉⾦沢⼤学に包括され昭和26年3⽉70有余年の歴史を閉じた。(『⾦沢⼤学⼗年史』,1960) ⇒年表    
石川青年師範学校
昭和10年4⽉⻘年学校令及び同規定が公布され,同じく⻘年学校教員養成所規定が公布された。昭和12年3⽉⽯川県⽴⻘年学校教員養成所が設⽴された。昭和19年4⽉⽯川⻘年師範学校が津幡農学校内に開校した。昭和21年6⽉⾦沢市野⽥町旧騎兵隊跡に移転した。昭和24年5⽉⾦沢⼤学に包括された。昭和26年3⽉7年間の歴史を閉じた。(『⾦沢⼤学⼗年史』,1960) ⇒年表    
金沢高等師範学校
昭和19年3⽉⾼等師範学校官制改正公布され⾦沢⾼等師範学校が設置されることとなった。⾦沢市より中村町国⺠学校の校舎及び敷地の寄付を受けた。同年4⽉1⽇倉林源四郎校⻑及び各職員の任命があった。同年5⽉8⽇第1回⼊学式を挙⾏した。昭和20年10⽉校旗制定。同年10⽉校歌制定。昭和21年9⽉⾦沢市野⽥町180番地に校舎を移転した。昭和22年4⽉附属中学校が付設された。昭和24年5⽉⾦沢⼤学に包括され,附属⾼等学校は教育学部付属学校となった。昭和27年3⽉閉校式を挙⾏した。(『⾦沢⼤学⼗年史』,1960) ⇒年表  
金沢医科大学、同附属医学専門部
慶応3年卯⾠⼭に加賀藩⽴の養⽣所を設け北陸に於ける医学の嚆⽮として治療教授を始めた。明治3年藩⽴の医学館を⼤⼿町に設けた。明治5年廃藩置県の改⾰により廃⽌されるも翌6年⾦沢町よりの補助により半公⽴の形態をとる。 明治9年医学所を設けた。明治12年⾦沢医学校と改称した。明治17年⽯川県甲種医学校に昇格した。明治20年中学校令及び⾼等中学校官制の公布により第四⾼等中学校医学部となり,明治34年⾦沢医学専⾨学校となった。   ⼤正12年官⽴医科⼤学官制の⼀部が改正され⾦沢医科⼤学となり,附属医学専⾨部及び附属薬学専⾨部を置いた。昭和17年3⽉附属結核研究所を設置した。昭和24年5⽉⾦沢⼤学に包括された。なお⾦沢医科⼤学は昭和35年3⽉まで存続される。(『⾦沢⼤学⼗年史』,1960) ⇒年表  
金沢医科大学附属結核研究所
昭和16年1⽉⾦沢医科⼤学に結核研究施設を設け,教授岡本肇を主任として結核の化学療法に関する研究を開始した。昭和17年3⽉官⽴医科⼤学官制の⼀部改正により⾦沢医科⼤学附属結核研究所となった。昭和17年4⽉所⻑に⾦沢医科⼤学⻑⽯坂伸吉が兼補され,研究部⾨を薬理製剤,細菌免疫,化学の3部を設けた。昭和22年8⽉診療部を付設した。昭和24年5⽉⾦沢⼤学に包括され,⾦沢⼤学結核研究所となった。  
金沢医科大学附属薬学専門部
明治4年7⽉加賀藩が医学館に理化学教室を設け傍ら製薬を始めた。その後廃藩置県の際⼀時中⽌されたが明治7年再興し県⽴⾦沢医学館附属製薬所となった。明治9年医学所薬局学科となった。明治12年⾦沢医学校と改称されその製薬学科となった。明治17年⽯川県甲種医学校と改称されてその付設として⼄種薬学校となった。明治22年第四⾼等中学校医学部に薬学科が付設された。明治34年⾦沢医学専⾨学校薬学科となった。 ⼤正12年3⽉官⽴医科⼤学官制の改正により⾦沢医科⼤学薬学専⾨部となった。昭和24年5⽉⾦沢医科⼤学に包括され,昭和26年3⽉薬学専⾨部27年の歴史は発展的に薬学部に引き継がれた。(『⾦沢⼤学⼗年史』,1960) ⇒年表  
金沢工業専門学校
⼤正5年9⽉⽯川県知事より,⼤正6年度に於て第⼗⼀⾼等⼯業学校敷地買収費として⾦6万円の寄付⽅申請があった。⼤正7年3⽉敷地を⽯川県⽯川郡崎浦村(現在の⾦沢市上野本町)に決定,⽯川県知事に於て⾦35,470円を以て買収登記。同年4⽉⽯川県知事より創設費として72万円を寄付,同年9⽉名古屋⾼等⼯業学校教授⻘⼾信賢,⾦沢⾼等⼯業学校創⽴事務を嘱託された。同年10⽉建設⼯事に着⼿,⼤正9年11⽉⾦沢⾼等⼯業学校官制が公布された。⼤正10年4⽉第1回⼊学宣誓式を挙⾏,学科を⼟⽊⼯学科,機械⼯学科,応⽤化学科の3科とした。昭和14年5⽉化学機械科,電気⼯学科の2科を増設,昭和18年3⽉⼯業教員養成所を付設,昭和19年4⽉⾦沢⼯業専⾨学校と改称し第⼆部(夜間)機械科を新設,昭和20年4⽉第⼀部に精密機械科を増設した。早くからあった北陸総合⼤学設置運動がなかなか効を奏さないので,⾦沢⼯専を⼯業⼤学に昇格させようという動きが昭和14,15年頃からあった。学制改⾰機運の盛りあがりを迎えて昭和22年4⽉3⽇に有志が会合し次いで昇格期成同盟会を結成,政,財界の協⼒を得て活発な運動を開始したが,北陸総合⼤学の実現の⾒通しが濃くなったのでその⽅に合流した。昭和24年5⽉⾦沢⼤学に包括され,昭和26年4⽉⾦沢⼯業専⾨学校31年の歴史を閉じた。(『⾦沢⼤学⼗年史』,1960) ⇒年表  
創設期の各学部
明治31年⾦沢に設置された第九師団の司令部庁舎。昭和24年からは⾦沢⼤学本部。昭和43年に⽯川県が購⼊,同年⾦沢城内から現在地(⾦沢市⽯引)に移築,修復。その際,建物の両翼を切り縮めた。昭和49年から現在まで⽯川県健⺠公社として使⽤。(⽯川県健⺠公社は現石川県民ふれいあ公社,平成16年に所在地を金沢市袋畠町南193番地 産業展示館2号館内に移転)